昭和四十九年三月二十四日 竹内八重乃一年祭の御挨拶


 ただ今不行届きなことでございましたけれども、お祖母ちゃんの一年の式年祭を、滞りなく仕えさせて頂きましたが、昨夜から、今日に掛けてこれこそ霊様の御働き、天地の親神様のお恵みを十分に受けておられる人、または霊の状態というのが、こういうことであろうかと思うように、万事万端の上に、お都合お繰り合わせを頂いて、ただ今のお祭が奉仕させて頂いたわけでございますが、こうやってたくさん遺族親族の方たち、いわゆる家族親族の皆さん方もおそらくは、これこそお祖母ちゃまの、霊のお導きであろう、働きであろうと思われるようなおかげの中に、お引き寄せを頂かれたものだと私は思います。
 昨日、こちらの教会の、恒例の春の霊祭でございましたが、霊祭を奉仕させて頂きます前日、前夜、もうほとんど夜を撤して、昨日の霊のお祭がスムーズにおかげを頂きますために、私はそのことにかからして頂くわけでございますけれども、もう本当に人間の世界にも、ピンからキリまでの人たちが様々な難儀または、幸福の中に過ごしておりますように、もう霊の世界も、もっとはっきりと、そこんところを感じるのが、こりゃまあ私も本当のことはよく判りませんけれども、私の知り得ておる程度の神様の世界というか、霊様の世界というものを、まあ覗き見ぐらいのことですけれども、それを感じます。
 いわゆる昨日の晩になります。昨日のお祭を仕えるための、丁度夜の十二時からもうみんな静かにみんな早く休ましましてから、私神前に来たり、霊前に出て、そのことをお願いするわけでございますけれども、たくさんなお夜食風のお供えを前夜に頂いておりましたから、それを私いつも、霊様の前にお供えをさしてもろうて、まあ判りやすく申しますと、それこそ一杯の水が頂きたいけれども、その水すらもね、許されない霊があると。熱いお茶をと思うても、そのお茶一杯が頂けない霊があるという、そういう霊の現状の中にね、もうとにかくその、明日ですね、昨日の晩から言うと、明日は合楽の教会でこうして霊祭があって、大坪総一郎という神様と氏子の取次をさして頂くその人の信心によって、私共もそれに、潤わして頂くことが出来るそのお祭に、寄らせて頂くことが出来るというその喜びの霊とね、どんなに、言うならば、騙してもすかしても、一つの思い込みというか、そりゃ霊のために苦しんでおりながら、そこから一歩も動こうとしないというような、頑固な霊もあるということ。
 それは例えば、本当に幸せそうな一家がおかげを頂いて信心を頂いて、本当にこういう有難いお道があるから、「御信心なさい」と言うてお導きしても、「うんや私は」と言うて、頑固な人間がおるでしょ。一つも変わらんです。
 私そのことをいつもの度に感じるんですけれども、丁度あのう、そのことを私お知らせ頂いたのが、この頃から、大変賑やかに色々な報道されておりました、小野田さんの内地帰還のことでございますよね、のことを頂くんです。もうそれこそ、まあ人間の意志の力というか、大変なことだと思うんですけれども、三十年間もの間、ジャングルの中で生活をされたと。それで小野田さんがまだ生存しておられるということが判って、もう何回となしに、こちらから身内に方達までが、たった一人の人の救い救出のために、様々な手を打たれましたけれども、なかなかジャングルから出てこうとしない。行ったたんびんに雑誌を置いたり、缶詰をこの辺に出没するだろうという所にそういうようなものを置いておって、内地の情勢とか、またはそういう食料のような物までもその置いて、されるけれども、なかなかこちらの手に乗ってこない。
 というようにです。分からんこととは言いながら、霊の場合でもそうです。と言うて苦しいことだけは苦しんでおるんですから、なら、霊の前にうず高く、それこそもう今このまま頂けるというようなお夜食物、ご馳走をたくさんお供えをさせて頂いて、「お水も欲しいなら、お水もあるよ。お茶欲しいなら、お茶も」と言うて、霊前にお供えさせて頂いて、言うならば、どうでも難儀な、言うならば、合楽の信心に縁を頂いておるもうありとあらゆる限りの霊たちに、せめて霊の祭のその日一日だけでも、楽してもらいたい、喜んでもらいたいという、私の願い、同時に天地の親神様の願いを、私が取次がせて頂いて、そうさせて頂いてもです。頑固としてね、ジャングルの中でそれこそ苦しんでおる霊が、なかなか出てこうとはしないけれどね、何かにつられたようにして、出てくるような霊もあって、そして、実際霊のお祭を受けて初めて、はあ本当にもう、それこそ「久しぶりにお茶を頂いた。久しぶりにお水を頂いた。久しぶりにこういう山海の珍味にも会わせて頂いた」と。まあこれは皆さん判りやすい霊の世界を人間生身を持っている者の、言うならば、それに例えて話してるわけですけれども、実際はそうではありませんけれども。
 そういう、例えて申しますなら、助かっていない霊、丁度昨日お祭、その前の日でした。すぐこの上に安東さんと言う方がおりまして、その家が、言わばもう追い立てをくっておられます。それでもう最近では、毎日その家捜しにかかっておられますけれども、なかなか家が見つからない。それで丁度これから一里ばかり上の方へ家があるというので行かれた。立派な鉄筋コンクリの家で、もう勿体ないような家があると。ところがどうしてこんな家が、こんなに安うして、こんな所にいつまでも空き家であるかということで、まあ色々調べたところが、まあ現代の人が聞いたら、笑い話のようなことですけれども、その家には「幽霊が出る」ということなんです。そして次から次と借った人たちがみんなノイローゼのようになって出て行かれて、以来というものはそこに住まう人がなくなっておるという曰く付きの家であった。
 それで安東さん、そのことをお届けに見えましたから、「そりゃおかげ頂いたね。その家もそりゃひょっとすると安うして買われるかもしれんよ。まあ買いは出来んなら、ま、その家を」「はあでもあなたもう、うちの主人が臆病ですから。息子が何とか」と言いよったけど、「あんたたちがそげんそげん言うごとあるなら、私が暫く泊りに行ってあげる。私が泊りに行くならいいじゃろう」「先生も来て頂くならば」といったようなことでね。まあ普通から言うとです。それこそ笑い話のような話ですけれども、ならこれを否めない話もあるです。実際はあるのですそれは。
 先日のあのう、西日本新聞に出ておりましたように、首括って亡くなった所の写真を撮ったところが、その言わば幽霊が、写真に映じておったと。写っておったと。だから魂の世界ということを、言うならば私共が否定する訳には行きません程しに、現在の科学を以てしても、それが言うなら霊界通信なんかが出来るといわれる程しに、進歩しておるわけですけれども、ただそれがなら、霊界通信が出来るとか、霊の世界があるとかという言うたり判ったりしただけでは何にもならん。それが私共が、生前こうやって本当に魂の清まりを願っての日々。様々な問題はあります。様々な問題も難儀もありますけれども、問題難儀を通して、いよいよ魂を清めることに、精進させて頂いて今日のおかげ頂いておるのが、お祖母ちゃんの信心によって、今日の竹内の一家のおかげの状態ではないかと私は思わしてもらいます。
 もう本当に、今も申しますように、それこそもう、私の言う通りにすりゃここで助かられるという、なら霊でもです。どんなに言うて聞かせても、それを一つの思い込みと言うかね。間違った考えを思い込んで、ジャングルの中で例えば苦しみ抜いておりながらも、出てこうとしなかった小野田さんのようにです。霊の中にもそういう霊すらがある。それこそ騙したりすかしたりしなければ、このお祭を仕えても、お祭の晩出て来ることが出来ない程しの、弱い霊または乱れた霊、または助かっていない霊があるのですけれども、例えばならそれに引き替えて、今日のお祖母ちゃまのお祭をさして頂いて、もう仕えよいこと、仕えよいこと。こりゃもう昨夜からでございますけれども、もうその素晴らしいタイミングというか、もうただただ恐れ入ってしまう。いかに霊が一つの、有難いというリズムにのって、今日のお祭を喜び一杯で受けておられるかということを、もう実感しなければおられんです。
 まあこりゃ私、細かく申しますと、そりゃもう微に入り細にわたってその働きを実感して参りました。例えて言うと、今日なんかはもう朝からてんやわんやでございましたが、思いがけない次々と事柄がありまして、それがもう一糸乱れないように、例えば今日はここで、【 】さんの、お宅の【  】をさせて頂きたいという願いがあっておりましたから、客殿のマット類片付けたり、お茶の準備をさせて頂いたり、そこへ丁度ここでお茶の御用いつも頂いておる方が、今日はおられましてから、その準備をして、部屋も暖めたというところに、思いがけない十何人の、もうお粗末に出来ないという、これは御信者さんじゃないですけども、お客さんがありましてね。もうそれこそ置いたものを取るように、客殿でお茶を差し上げたり、まあ色々と致しましたように、あちょっと今日は分が良かった。まあ分が良かったで済まされんぞと、神様の御働き、今日の霊様の言うならばそういう働きの中に、例えばこの霊のお祭ならお祭に、支障がない、差支えがない。これは霊が、本当に助かっておるというか、喜んでおるというか、安心のおかげを頂いておる霊でなからなければ出来まい。
 例えば天候の上においても、そういう時間的なことの上においても、私は、この四時半に、信者の家の宅祭で今日は出らなきゃなりませんけれども、もうおそらくは、そういう働きの中に、今日一日をまあおかげ頂くことでございましょうけれどもです。せっかくお互い、おかげを頂いて、こうして御神縁にあずからして頂く。とくにその、お祖母ちゃんに縁の深い皆さんが、今日このようにもたくさんにお集まりになって、霊様を、言わば偲ばれたり、讃えられたり、またはその懐かしい霊様へのお心を寄せられるということがです。何かそこに、ちょっとでも、つまずきがあったり、例えば昨日なんか、もう私は、あの本当に驚いてしまいましたけど、いやあ神様の働きを驚くんです。そのことに驚かんですけれども、【  】さんが急に夜中に具合が悪くなった。もうそれも、もうそれこそびっくりするようなことでございましたけれども、だったそうでございます。私は参りませんでしたけれど、まあその、夜中にどうしてこういう手順の良い素晴らしい働きの中に、こういうことが出来るだろうかと思うような、それから一時間半ぐらいの後には、本人がもう私の部屋にお礼言ってくる程しのおかげを頂いた。
 今日はここで、こちらの地区の信徒集会があっておりまして、合楽から女子青年の代表して、永美子さんが、体験発表をしなければならなくなっておった。それで、講題も「家族勢を揃えての信心生活」といったようなテーマで、今日はお話をして来ておるはずでございます。それも時間もね、丁度午前中で終わるということだったから、まあ受けておかげを頂いたわけですけれども、まあ何かの都合で少し時間が延長したそうですけれども、「まだ帰って来んか、まだ帰って来んか」と言っておるところへ帰ってきた。丁度このお祭りに差支えないようにお繰り合わせを頂いたわけですけれども、そういう例えばこの世でのそういう働きを、私は目には見えないけれども、これは霊の働きと言うふうに感じ取らせて頂くわけにはいけないだろうか。いや感じなければいけない。それを本当に自分の心に、霊の世界での働き、喜びの様子を目の前に見るような思いをです。私は感じ取らして頂く心の情操というか、状態を、日頃作っていかなければいけない。
 私共は必ず一度は言うならばあの世に参らなければなりませんけれども、その魂を本気で清めることのための精進をさせて頂きながら、今も尚且つ、霊はいよいよ魂の清まりを願って、霊ながらの精進を続けておられる。これだけでもね。おかげを頂かしてもらうということをね、私は今日の霊に肖らして頂いて私自身もおかげを頂いた。竹内の遺族親族の方達にもです。そこのところをただ霊祭、式年の一年のお祭に逢わせて頂いたというでけではなくて、そこから「お祖母ちゃん、おかげで私達もこういうことが判らして頂いたんだ」というようなね。ことになってきたら、お祖母ちゃんの霊の喜びもまた、一入であろうかと言う風に思うのです。
 私はもう、こうして実際肉眼で見える人間の世界でのお付き合いよりも、そうした目には見えませんけれども、心で感じる霊との交流の世界、もう霊のお祭を、こりゃここのことだけに限りませんけれども、さして頂いて、こういう様子というか、こういう心の状態というものが頂けれる道があるけれども、それこそ、いくら言うても、ジャングルの中の小野田さんじゃないけれども、ガンとしてそれを聞こうともしない人たちの多いのに、本当に私は、本当に「真の道も信心の道も知らぬ人の哀れさ」と、天地の親神様が仰せられますけれども、私もそれを本当に実感致します。
 どうぞ一つ今日の霊に逢わせられたことの喜びと同時に、お祖母ちゃんの御信心に、言うならば肖らして頂くおかげも頂いて頂きたいと切に願うものでございます。
有難うございました。